第43話「部屋」  @百物語2011本編

著:のぶえ ◆mF3J5kfOro  


171 :のぶえ ◆mF3J5kfOro :2011/08/20(土) 00:34:39.33 ID:S3jNAwBG0
部屋(1/3)

東京の大学に入って、最初の夏の話だ。
空調の利いた部屋でぬくぬくと布団をかぶり、夏虫の合唱を聞きながら過ごす夏はとても趣があることに気付いたのはこの頃。
その夜も俺は、座椅子に腰掛けて文庫本を読んでいた。中古で二十円の破格に期待など皆無だったのに、存外に夢中になってしまった。
本を閉じたとき短針は二時を回っていた。

翌日は、朝の十時から約束があることを思い出す。
少し考えてから眼鏡を外し、座椅子の背もたれをぐっと下ろすと、俺はその上に寝そべることにした。
朝にちゃんと覚醒できるように電気も空調も付けたままだ。
黄ばんだ毛布を被ると、すぐに俺は寝入った。

目が覚めた時、どれだけの時間が経っていただろうか、ここに記すことはできない。
なにしろ時計を確認することが出来なかったのだ。
俺は金縛りにあっていた。

こうなっては時間の経過を待つより他ないと、経験上知っていたものの、物のためしと俺は闇雲に身体を動かしてみた。
結果、閉じられた瞼が数ミリほどこじ開けられたような気がしないでもない。その程度の成果だった。
眼鏡を外していた上に半開きなものだから、視界はピントが合わず、余計にもどかしい感じになった。

このとき、時間を無駄にすることに耐えられなくて、九九など頭の中で唱えていた気がする。

172 :のぶえ ◆mF3J5kfOro :2011/08/20(土) 00:36:43.12 ID:S3jNAwBG0
(2/3)

仕方なく身を横たえたままにしていると、つと視界の端で何かが動いた。
最初は、何かの拍子でカーテンが翻ったのだろうといった程度の認識だった。
そんな暢気なものだから、次の瞬間に状況をより正確に理解したときの驚きは一入だった。心臓が鉛になったようだった。
動いていたのは戸だった。
玄関に続く戸が開き、そこから何者かが入ってきたのだ。

それまで、金縛りは何度も経験していた。
それを踏まえても、決して超常現象の類ではなく、身体の覚醒の不調によって説明できると信じていた。
しかし、今確かに、いるはずの無い何者かが迫っている。

恐怖で動けないでいるままの俺に、すり足で床を徐々に迫ってくるそれ。
真っ白になりそうな意識を繋ぎとめながら、俺はどうにか勇気を奮い起そうと、思いつくばかりの悪態を浮かべた。念仏が唱えられれば良かったんだが、生憎そんな高尚な語彙は持ち合わせていなかった。
そんな努力もむなしく、それは俺の足元に迫り、緩慢なしぐさで毛布に侵入を始めた。
俺は必死で即席念仏、もとい罵詈雑言を唱えようとする。

馬鹿野郎馬鹿野郎死ねハゲクソ死ねタコクソうぜえ死ねハゲクソ死ねハゲクソ死ねハゲクソ死ねクソ死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね


……

……

173 :のぶえ ◆mF3J5kfOro :2011/08/20(土) 00:39:19.21 ID:S3jNAwBG0
(3/3)

死ね

つと、祈りが通じたのだろうか。
その言葉が口を打って出たと思うと、俺の腹のあたりまで来ていたそいつはすっかり消えていた。
視力も回復していき、やがてだんだんと身体が動くようになった。
その間も震える体を鼓舞するために、持ちうる限りの汚い言葉を唱え続けた。

身体がすっかり覚醒すると、俺は立ち上がった。
毛布の中には、人ひとり分の空洞がぽっかりできていた。
進入路の戸は開いていた。
貧乏症の俺が、エアコンをつけたまま戸締りを忘れるということは考えられなかった。




思えば二時間の通学時間に嫌気がさした五月、不動産屋でその部屋を斡旋されたとき疑うべきだった。
清潔なクリーム色の部屋で、家賃は諭吉五枚。中央線まで歩いて五分。
決して悪くない条件だし、実際にマンションは俺が入った部屋を除いて満杯だったのだ。

部屋を出た今でも、たまにその前を通る時、カーテンをチェックするようにしている。
今のところ、半年ともった住人はいないようだ。